「コンテナ物語」

1970年代後半の海運産業は、必死で規模を追い求めていた。船が大きくなればコンテナ輸送コストは下がる。港が大きくクレーンが協力になれば、荷役コストは下がる。70年代初めに主流だった20’コンテナはすでに40’コンテナに取って代わられ、荷役時間も船の船舶時間も大幅に短縮されていた。こうしてコストが削減されれば、その分を有効な投資に回すこともできる。これは好循環といってよいだろう。コンテナ1個当たりのコストが下がれば運賃を下げるころができ、運賃が下がればたくさんの貨物を集荷できる。そうなれば単位コストはますますさがる、という図式である。コンテナ輸送は、規模の経済がモノを言う産業の代表格だった。

コンテナ時代が到来すると弱小企業に生き残る余地はなくなった。・・貨物が多いほど固定費を分散できるからだ。事業範囲を広げれば広げるほど、たくさんの貨物、たくさんのコンテナを確保できる。それにネットワークを拡大すれば、グローバル企業を顧客に抱えるチャンスが増えるという大きなメリットもあった。

規模の追求は、隻数の増加だけでなく船自体の大型化をも意味する。1966年に大西洋を横断した最初のコンテナ船、しーだんどのフェアランド号は全長140メートルに過ぎなかったが、60年代末に登場したコンテナ専用船は、180メートルに達している。そして72年頃から就航した高速船は、全長270メートル、幅24メートル、喫水12メートルはあった。ここまで大きくなればもう限界かと当時は思われたものである。北米大西洋岸からアジアに向かうにはパナ運河を通らねばならいが、この運河の水門は、船幅32.3メートル以下、喫水12メートル以下でないと通れないからだ。だが石油ショックが思わぬけがの功名をもたらす。燃料節約のため平均速度が落とされた(73年には平均25ノットだったのが、84年には20ノットになった)おかげで船を流線形にする必要がなくなり、積載能力が強化されたのである。78年に就航したコンテナ船は、どれも3500TEUを運ぶことができた。

パナマックス級と呼ばれる大型船は、コンテナ輸送コストが格段に減っている。まず建造費そのものが、能力に比して安い。3000個のコンテナを運ぶ船は1500個を運ぶ船の2倍の鉄鋼を使うわけではないし、2倍の馬力を持つエンジンが費用でもないからである。しかも新しい船ほど操縦が自動化されるから、ノリ区民の数が少なくて済み、人件費が軽減される。燃料消費量にしても、船のサイズに比例して増えるわけではない。また、198年代に建造された船の積載能力は4200TEUに達したが、1トン当たりの輸送コストは3000TEU級の船より40%すくなく、1800TEU級と平ベルトなんと60%以上すくなかった。コンテナ輸送における規模の経済の効果は大きく、しかもはっきりしていたから、1988年になるとパナマ運河を航行できなほどの大型船も発注されるようになった。

港の巨大化にはコンテナ船の大型化と同じ理屈が働いている。つまり、コンテナ1個当たりのコストをできるだけ切り詰めるとうことである。大量のコンテナはほとんどとどまることなく通り過ぎてゆく。船会社は、高い元でのかかった船をできるだけ遊ばせないよう、ごく少数の港を中止にルートを組み立てた。地理的条件に縛られないとなれば、コストが安い方がいいに決まっている。荷役コストはどこが安いか。係船料その他のポートチャージは、また、港から内陸部への輸送の便は・・。こうして、輸送ルートの始めから終わりまでにかかるトータルコストがルートを選ぶ決めてになった。この新しい港の地理学は、従来とは異なる貿易パターンを生み出す。・・・日本からサンフランシスコ向けの貿易は、ごく近くのオークランドではなくシアトルに贈られた。シアトルからサンフランシスコまで鉄道ゆそうしても、寄港先を減らす方が安上がりだからである。

繁栄する港をもった都市は、大きな経済効果が期待できる。港周辺の都市圏には陸運、鉄道、倉庫などが集中するから通関業者や運送業者が大量に必要になるし、港湾関係の事業からの税収も期待できる。・・東京やロンドンのように巨大都市を抱える港が反映するとは限らないのである。決定権を握るのは船会社であり、大型船にコールしてもらうために、港は競わなければならなかった。

港はバースやターミナルを用意し有力船会社と長期リース契約を結ぼうと躍起になったが、めでたく契約締結にこぎつけても、必ずしも利益がもたされるとは限らなかった。港をスイッチするのは船会社の勝手だったし、現実にそういうことはひんぱんいあったからである。そうなれば港は最低保証料しか手にすることはできなかった。アメリカでは契約後1年以内に30の船会社が港を乗り換え、港によっては輸送量の激減という悲劇に直面している。

こうして港湾事業にはリスクがつきまとうものだということが、ようやく政府にもわかってくる。・・・打開策を最初に打ち出したのは、イギリスのマーガレット・サッチャー首相である。サッチャー政権は、1981年に21の港を民間企業に売り渡した。・・ほとんどの民間事業体の手で運営されるようになる。事業体には荷役会社、輸送会社、海運会社などが出資した。そのころには海運会社は巨大企業と化しており、港湾運営に必要な資本を調達できるようになっていたのである。






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